モンゴル調査研究(7)
2017.09.24

今日も引き続き自由研究(汗)。午前中は皆でチョイバルサンの市場を見に行きました。入口は写真左のような立派なゲートになっているのですが、とくに警備員や警察官が立っていて持ち物検査するなどは一切なく、誰でも自由に出入りできます。中は写真右のような感じで東京のアメ横を思い起こします。


このゲート内ではありませんが、この地区に楽器店もあるときいて行ってみました。この市場の並びにあります。写真左のようにギターに混じって民族楽器の馬頭琴も商品として陳列されていたりします。最近のモンゴルでは民族音楽の他、若いミュージシャンの間ではロックのような欧米の音楽もさかんに採り入れられているのですが、この楽器店にもエレキギターやギターアンプもありました。それに電気工作のキットも。この国では自分の好みのアンプなどを自作したり自分の音楽に合うようにチューニングするミュージシャンがいるのかと思ったらなんだかすごく嬉しくなりました。この店は学期の他にいろいろな雑貨やお土産も売っているのですが、ちょっと面白いものを見つけました(写真右)。日光東照宮の三猿を思わせますが、通訳のカウガさんによるとモンゴルにも「見ざる」「聞かざる」「言わざる」はあるそうです。ていうかもしかしたらこれはモンゴルから渡ってきた格言なのかもしれない、なんていう思いに駈られました。


市場を出て、ロシア人墓地に行ってみました。宿泊先のBOLOR HOTELよりずっとチョイバルサン市の中心地に寄った丘の上にあります。丘の上には慰霊碑(写真左)があり、第2次世界大戦中に日本軍との戦闘で撃墜された旧ソ連軍パイロットの墓地であることがわかります。写真中央でわかるように、1992年の民主化(ロシア支配からの独立)の際に破壊されたなどということなく、現在も尚きれいに整備されています。この丘からいったんBOLOR HOTELの前を通り過ぎ、反対方向に町はずれもで行ったところにも戦争の爪痕を残すものがありました。写真右のような旧ソ連軍の戦車です。ノモンハン事件があったのはチュイバルサンから東へ200kmほどのハルハ川沿いですが、かってモンゴルでは「この戦いで日本とモンゴルは交戦したのだ(*1)」と反日感情を持つ人も少なくありませんでした。


午後は、昨年来たときに気になったものの見る時間がなかったものを見に行くことにしました。↑です。ここは明日訪問予定のドルノド県第12学校のすぐ近くにあるチベット仏教(*2)のお寺です。観光で有名なのはウランバートルのガンダン寺ですが、小さな寺院は各地にあり、ここチョイバルサンにもあります。私たちが行ったとき、ちょうど1組の結婚式があり(お坊さんが2人の前でお経をあげるだけで親戚や友人が来ているわけではありませんでしたが)、それを見ることを許可されました。お経を聴いていると、モンゴル独特の歌唱法ホーミーがチベット仏教のお経からきているものであることがよくわかります。残念ながら堂内の見学は許されたものの撮影は一切許可が下りなかったので建物外観のみでご容赦ください。


お寺の見学も終え、ホテルに戻ります。ここからだと徒歩でも30分ほどで帰れるのでまだ見ていないところを見ながら歩いて帰ることにしました。写真左は歩いて帰る途中にある相撲場。何もないときは門は施錠されていて近くで見ることもできませんでした。写真右は幼稚園(or保育園)でしょうか。

この他にも、近辺には技術系専門学校や工業系と思われる大学がありました。
チョイバルサン市でもこの辺りは文教地区になるのかもしれません。

(注)
*1)ハルハ川を挟んで武力衝突したのは旧満州国とモンゴルなのですが、旧満州国は日本軍が支援し、モンゴルは旧ソ連と軍事同盟を結んでいました。1939年のことです。
*2)1939年、旧ソ連によるモンゴル大粛清で、反ソ思想をもつ政治家や軍人が処刑・追放された他、チベット仏教も迫害を受けました。チョイバルサンのこのお寺も建物裏に回ると旧ソ連により破壊されてそのままなんだな、と思われる仏像が転がっていたりしました。いつの日か復元されることを強く願うものです。この粛清があった同じ年にノモンハン事件が起こっています。
モンゴル調査研究(6)
2017.09.23
今日は土曜日。こちらでも土曜日は学校が休みのため学校ほ訪問しての調査はできないので、今日、明日は各自の自由研究ということになりました(要は観光だろ、というツッコミはなしでお願いします)。

チョイバルサンは1992年にモンゴル国が旧ソ連支配から独立した後も首都ウランバートルよりロシアとのつながりが強く(*1)、そのような中で学校教育はどのように行われ、音楽教育にはどのような影響を与えているのかが知りたくて、昨年初めてこの地を訪問しました。



朝6時頃。写真左は宿泊先のBOLOR HOTEL。このホテルの目の前にある道路を挟んで反対側には公園があります(写真右)。早朝はお年寄りが健康のために散歩したりしているところは日本と同じ光景です。今日は午後から遊牧地の見学ができることになったので、午前中はこのホテルの近辺を見て歩くことにしました。



付近を歩いているとよく目にするのが、団地のような集合住宅。これはこの地が旧ソ連統治時代にはソ連からの移住者、ソ連経済で潤っていたことをしめすものです(*2)。現在ほとんどのアパートは1階部分は何かの店舗になってはいるものの、2階以上が空き家になっています。昨年来たときには店舗にはこれといった看板がなく外からでは何の店かわからない状態でした。これは社会主義時代の名残だったそうです。そうするとこの1年間でだいぶ脱社会主義が進んだ?現在は↑の写真左のように店舗にはしっかり看板が付けられ、写真右のようなホテル&レストランも出来ています。



この地域は、学校も多く(私たちが訪問を予定しているドルノド県第12学校、第5学校の他にも、数校見受けられた)、また子供たちが伸び伸びと活動できる施設も充実しています。↑の写真は学校の特別活動というか、(土曜日なので)地域のスポーツクラブのようなものかと思われます。




泊っているホテルの目の前にある公園を通って、ホテルに戻りました。この公園の中にこんなものが静態保存されていました。旧ソ連軍の装甲車(写真左)。キャタビラがなく武器は砲1門しかないことから戦闘用ではなく兵員・物資輸送用と思われます。このような所にもこの地域が自国の首都よりもいまだにロシアとのつながりを大事にしていることがうかがえます。
写真右は民族楽器の馬頭琴を演奏している音楽家の銅像。この国が誇る演奏家と思われますが、説明板がモンゴル語のみで英語が併記されていないので私と息子ではこの人物が誰なのか知ることはできませんでした。



午後は今回のチーム全員で、この地の牧場を見学。牧場といっても観光客用の設備があるわけではなく、いってみれば「遊牧民のご家庭訪問」のような感じです。ここは体験施設ではなく実際に生活に使われている場なので、住居(ゲル)も写真左のように発電設備あり、テレビアンテナありです。内部も写真右のように訪問者に見せるための展示はありませんが、本当の遊牧民の生活がどういうものかを知ることができます。気温は10度くらいでしょうか。家の中でも防寒具を着てよいのならまだ日中は暖房は要らないくらいでした。



遊牧民の家庭を訪問すると最初はこれです。日本ならお茶になるところがこちらではウォッカです(↑の画像をクリックすると動画で見られます)。私は狭心症以来アルコールがダメになっているのですが、せっかくの歓迎の気持ちを無にするのは、とも思い一口だけいただきました。腹の中が火事になったかと思いましたが(汗)。ちなみに本当にアルコールがダメな人や子供には山羊か馬の乳で作ったミルクが出ます。



ひととおり挨拶も済んだところで放牧の様子を見せていただくことになりました。モンゴルでの放牧は牛が多いのですが、この牧場では主としてラクダと馬のようで牛の姿は見られませんでした。ラクダにこんなに近寄れることは滅多にないので記念撮影です(写真右)。


ラクダの放牧の様子です(↑画像をクリックすると動画で見られます)


家畜を移動させるとき、馬を使うのが普通ですが最近はバイクを使うことも多いようです。写真左はそのバイクに乗せてもらってはしゃいでいる息子です。オフロード、2人乗り、ノーヘル、日本でこれやったら反則金いくらになるんでしょうね(笑)。そして我々ジジイたちは車で馬の水飲み場へと(写真右)


馬に乗せてもらって得意顔の息子(写真左)。
「子供の時、富山市ファミリーパークでポニーに乗ったことはあるけどデカい馬は初めてだ」と感激。
-おいおい、俺たちゃ観光で来たんじゃないぞ、わかってんのか-
「これ、走らせられないのかな?」
-それ出来たら乗馬上級者だから-
私(冷汗)
今回のモンゴル滞在中、遊牧民の服を着た人はあまり見かけなかったのですが、ここの牧場のお母さんが着ていました。頼んで記念写真撮らせてもらいました(写真右)
息子(オヤジ、言ってることとやってることが違う)

この遊牧地はチョイバルサン中心地からは車で小1時間、その道のりの半分は道なき道の草原を走ります。ここの子供たちはどうやって学校に通うんだろう、と疑問に思ったのですが、学校近辺に寄宿舎があり(おそらく近辺の数校合同のもの?)、平日はそこで生活し学校に通っているそうです。

(注)
(*1)チョイバルサンの鉄道の駅からはロシアへ通ずる鉄路はあるもののウランバートルとはつながっていません(計画はある)
(*2)チョイバルサン近郊にはウランが採掘できる鉱山があり、旧ソ連支配時代はウラン採掘と輸送で経済が成り立っていました(チョイバルサンからの鉄道はウラン輸送のために作られたもので、つい最近まで旅客列車は走ってなかった)
モンゴル調査研究(5)
2017.09.22
ウランバートルでの前半日程を終え、今日はここから600kmほど離れたドルノド県チョイバルサン市へと移動します。所要時間は車で約11時間ほど。ウランバートルのDREAM HOTELを朝、7:30に出発。チョイバルサン市に着く頃は夜になっている見込み。



出発後30分ほどのところにある大きなスーパーマーケット(写真左)で必要な物を買い込みます。道路を挟んで向こう側にはモンゴル国鉄の線路が通っていて運が良ければモスクワ行の国際列車が通るのですが、私たちがここにいる間には来ませんでした。スーパーを出てさらに30分ほどで、草原の中にそびえ立つチンギス・ハーン像が見えます(写真右)。とにかくムダにデカい。ここはチンギス・ハーン記念パークとなっていてこの像の顔近くまで上がることができます(2014年のモンゴル訪問時には上がってみました)。



途中の土産物店や食堂がある休憩所(写真左、日本の道の駅のような感じ)の場所で長めの休憩。こういう休憩施設がチョイバルサンまで何カ所があり、路線バス(ウランバートル~チョイバルサンには路線バスもあります)も立ち寄ります。
昨年(2016年)に来たときは、道路の状態が大変悪く、しばしば道から外れて草原・砂漠の中を走行したのですが、1年間で見違えるように道路が整備され(写真右)、昨年のように走行中に車の天井に頭ぶつけることはなくなりました(笑)。



ウランバートルを発って7時間ほど(途中の買い物や休憩時間を除くと6時間ほど)、ヘンティー県ウンドゥルハーン市へと入ります。この県を構成する群のひとつダダル郡はチンギス・ハーンの故郷と言われています(*1)。市中心部から少し離れたところにある。ホテルの1階のレストラン(写真左)で昼食・休憩。休憩時間が比較的長かったので、レストランから徒歩15分圏内の町見物(写真右)。昨年もここに立ち寄っていますが、このウンドゥルハーンという所、なんかとても気に入ってしまいました。いずれプライベートな旅行で来てじっくり見てみたいと思います。



ウンドゥルハーンを発ち、ひたすらチョイバルサンを目指します。沿道では随所で放牧の様子が見られます(写真左)。チョイバルサンまであと2時間ほどの所で日没となりました。日本では水平線に沈む太陽は見たことはあっても地平線に沈む太陽が見られる場所はそう多くはありませんが、ここではバッチリ見られます。息子は地平線に沈む太陽をバックに自撮りしていました(写真右)。昨年は9月上旬に来ているのでここを通ったときはまだ日中の明るさでした。今年は秋分の日を挟んできているのでかなり日が短くなっていました。

20:00頃、チョイバルサン到着、今夜から26日まで滞在します。

(注)
*1)2001年からの新潟大学人文学部、白石典之氏らのアウラガ遺跡発掘調査により、この地にチンギス・ハーンが築いたモンゴル帝国の首都があったことが判明
モンゴル調査研究(4)
2017.09.21
ウランバートル第28学校2日目です。この学校には音楽担当の先生が3人いらっしゃいます。昨年も今年も授業見学の許可が得られたのはオルントヤ先生とウルチーホ先生のお二人、昨日はオルントヤ先生の授業を中心に見たので今日はウルチーホ先生の授業を中心に見せていただきました。

ウルチーホ先生は元々がダンスの先生、音楽の授業も身体反応、ダンスの要素を採り入れた内容が多くなっていました。この曲は「9月1日」というタイトルで、新学期の喜びと希望に満ちた子供たちの気持ちを歌ったものです(*1)
ところでこの日、私の身にちょっとした悲劇が・・・(笑)。私は8年前の狭心症・脳梗塞での入院以後、歌がまったくダメになっていたのですが(*2)、この日、ウルチーホ先生の授業で、モンゴルの子供たちの前で「おうま」を歌うことに(大汗)。昨日の懇親会でこの歌のことが話題になったためか。


↑何があっても動じない自信のある方のみクリック(冷汗)

この日、オルントヤ先生は主に8年生(日本の中学2年に相当)が中心の担当でした。生徒の年齢が微妙なこともあり、授業の様子は撮影できませんでしたが、びっくりしたのはその内容、なんと「バロックから古典派の時代へのヨーロッパ社会情勢の変化と音楽の変遷」でした。おいおい、これって私が大学で教養原論の音楽を担当していた頃、講義していた内容ではないか!少なくとも音楽教育についてはそう遠くない将来、日本はモンゴルに追い抜かれるのでは?そんな思いが頭をよぎりました。



授業の様子は撮影できませんでしたが、授業終了後、8年生の生徒たちと記念写真を撮ることだけ許可されました。

(注)
*1)モンゴルでは学年の始まりは9月1日
*2)元々声はいい方ではないのですが、病気以来、息が長く続かなくなり、フレーズの途中でブレスしてしまうことが多くなりました。
モンゴル調査研究(3)
2017.09.20


今日はウランバートル第28学校(写真左)訪問の日です。この学校は宿泊しているDREAM HOTELから車で10分ほどの、首都中心地から少し離れた場所にあります。付近には入居者がいなくなって廃墟同然となったアパート(写真右)や倒産・廃業したと思われる町工場など、旧ソ連支配時代には経済的には潤っていた地域であることを示すものが数多く残っています。昨年(2016年)に引き続き2度目の訪問です。体育のY先生とH先生は今日はここで子供たちの体力測定を行ないます。私はこの学校の音楽の授業を見学させていただく予定です。


体育の先生の調査活動の様子です。これは50m走で、ゴールの所に立っているのは私の息子です。低学年の子供はゴール手前で全力疾走をやめてしまうため「ここまで全力で来い」と誘導する係です。


オルントヤ教諭の音楽の授業。電子ピアノを普通教室に持ち込んでの授業です。この学校に限らずモンゴルの学校では小学校低学年時より音楽専科の先生が授業を行なうので先生がこの楽器を担いで教室間を移動することになります。


夕方は28学校の先生方との懇親会。この席でこの学校の先生が代表的なモンゴル民謡の「おかあさんの歌」を歌ってくださいました(↑の画像をクリックすると聴けます)。この歌は昨年も遊牧民の生活体験施設で聴いたことがあるのですが、特徴的なのは最初のフレーズをひとりが歌い出し、以後を皆で斉唱、もちろんモンゴル人の心の歌だから誰しもが歌う、という意味もあるのかとは思いますが、このような民謡がそもそもそのような形式なのかどうかはさらに深い探求が必要なようです。

ところでこの日のこの飲み会で、3年越しの研究にとうとう終止符が打たれました。私が初めてモンゴルを訪れたのは2014年ですが、そのきっかけは体育のH先生(それ以前にも何度もモンゴルを訪問)から「ウランバートルに来るとあちこちで♪おうまのおやこは・・・の歌が聴こえる。この歌がいつどうやってモンゴルに渡ったものか調べられないか」という話を持ち掛けられたことでした。たしかにウランバートルでは交差点で歩行者用信号機が青になったときこの曲が流れます。当時の私の考えとしては「モンゴルからこんなにたくさんの力士が日本に来ていて、その中の誰かが持ち帰ったのか、この歌が元々旧日本陸軍からの依頼で子供たちに軍馬に親しませる歌を、ということで作られた歌であることから旧満州国→中国の内モンゴル自治区→モンゴルへと渡ったのでは?と考えていましたが、確証はありませんでした。そこでこの飲み会で思い切ってこの話題をふってみました。私の仮説はどちらも間違っていました。正解は、日本から中古車としてモンゴルに譲渡されたゴミ収集車に搭載されていたオルゴールのメロディでした(笑)

H先生、ご納得いただけましたでしょうか?


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